アーノルド・ウェインストック

ウェインストック男爵アーノルド・ウェインストック[注釈 1](Arnold Weinstock, Baron Weinstock, OMRI, FSS1924年7月29日 - 2002年7月23日)は、イギリス実業家である。ゼネラル・エレクトリック・カンパニー(GEC)をイギリスで最も利益を出す企業の一つにしたことで知られるほか、馬主としても知られる。

若年期

1924年7月29日ロンドンストーク・ニューイントン(英語版)で労働者階級の家に生まれた[1]。両親はイギリスに移住したユダヤ系ポーランド人だった。

ウェインストックはロンドン・スクール・オブ・エコノミクスを卒業した[2][3]

キャリア

1944年から1947年まで、海軍本部で下級職員を務めた。1949年に実業家マイケル・ソベル(英語版)の娘のネッタ(Netta)と結婚した。

1954年、義父が経営する電子機器会社ラジオ&アライド・インダストリーズ(英語版)に入社した。1963年、同社はゼネラル・エレクトリック・カンパニー(GEC)と合併し、ウェインストックはGECの筆頭株主になった[4]。1961年に取締役、1963年にマネージングディレクター(社長)に就任し、1996年に引退して名誉会長となった。1960年に1億ポンドだった同社の売上高は、1996年の退任時には110億ポンドになっていた。

1971年から1973年まで、ロールス・ロイス・リミテッドの取締役を務めた。1968年にロンドン・ウィークエンド・テレビ(英語版)が設立されるときには、多額の出資をした。

社会活動

1985年から1996年まで大英博物館の評議員、1984年から1992年までロイヤル・フィルハーモニック協会および同財団基金の評議員を務めた。指揮者リッカルド・ムーティの友人であり、ラジオ番組『無人島レコード(英語版)』に出演した際には、無人島に持って行きたいレコードとしてムーティ指揮のレコードを挙げた[5]

平和活動団体「ネクスト・センチュリー・ファンデーション」の設立に関わり、上級評議員を務めた。また、様々な慈善活動や文化活動を支援するための基金である「ウェインストック基金」を設立した。

賞と栄誉

1985年、母校ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの名誉フェローに選出された。『ガーディアン』紙はウェインストックを「第二次世界大戦後のイギリスで一番の実業家」と評した[6]

1970年、イギリスの輸出拡大への貢献を評してナイトに叙任された[7]。1980年7月17日付けで一代貴族としてウィルトシャー州ボウデン(英語版)のウェインストック男爵となった[8][9]

1991年にイタリア共和国功労勲章コンメンダトーレ、1992年にレジオンドヌール勲章オフィシエを授与された。また、王立統計学会フェロー、ケンブリッジ大学ピーターハウス(英語版)名誉フェロー(1982年)、グレイ法曹院名誉ベンチャー(1982年)に選出された。

馬主

ウェインストックは、義父のマイケル・ソベルとともに多数の競走馬を保有し、ジョッキークラブの会員だった。1957年に初めて馬を購入し、翌1958年にはロンドンクライがケンブリッジシャーハンデキャップを勝利した。1960年、アイルランドの牧場・バリーマッコル・スタッド(英語版)を購入した。1964年産まれのリフォーム(英語版)は、1967年のセントジェームズパレスステークスサセックスステークスチャンピオンステークスなどを勝利し、この年のチャンピオン・マイラーとなった。1974年、保有馬のゲイリー(英語版)がアイルランド1000ギニーを、アドメトゥス(英語版)ワシントンDCインターナショナルとプリンスオブウェールズステークスを制した。1978年、シスタスはルーペステークス、チャイルドステークスナッソーステークスオペラ賞を制した。トロイは1979年の第200回エプソムダービーで優勝した。サンプリンセス(英語版)は1983年のエプソムオークスセントレジャーステークスを制した。その子供のプリンスオブダンス(英語版)は、1988年の2歳チャンピオンとなった。

1993年に義父ソベルが亡くなった後は、息子のサイモンと共同で馬を保有した。スペクトラム(英語版)は1995年のアイルランド2000ギニーとチャンピオンステークスを制した。1996年にサイモンが亡くなった後は単独で馬主を継続したが、バリーマッコル・スタッド名義に変更した。ピルサドスキーは1996年のバーデン大賞BCターフ、1997年のジャパンカップを制し、日本に種牡馬として売却された。ゴーランは2001年の2000ギニーステークスと2002年のキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスを制した。イズリントン(英語版)は2002年のムシドラステークス(英語版)、2003年のBCフィリー&メアターフを制し、2002年・2003年のヨークシャーオークスを連覇した。

2002年にウェインストックが亡くなった後も、バリーマッコル・スタッドは遺族により運営されていたが、2017年に閉鎖され、保有馬は売却された。

私生活

ネッタとの間にはサイモン(1952年-1996年)とスーザン(1955年-)の2人の子供がいた[3]。ネッタは2019年に死去した[10]

脚注

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注釈

  1. ^ 日本語文献では、Weinstockは「ワインストック」とも表記される。

出典

  1. ^ Brummer, Alex (2002年7月24日). “Obituary: Lord Weinstock”. The Guardian. https://www.theguardian.com/news/2002/jul/24/guardianobituaries.alexbrummer 2018年11月20日閲覧。 
  2. ^ “Index entry”. FreeBMD. ONS. 2018年4月27日閲覧。
  3. ^ a b Who Was Who. (2007). doi:10.1093/ww/9780199540884.013.U39238 
  4. ^ “Home – Physics World”. Physics World. 2018年11月20日閲覧。
  5. ^ “Lord Weinstock”. The Telegraph. (2002年7月23日). https://www.telegraph.co.uk/news/obituaries/1402296/Lord-Weinstock.html 2018年11月20日閲覧。 
  6. ^ Brummer, Alex (2002年7月24日). “Obituary – Lord Weinstock”. The Guardian. https://www.theguardian.com/news/2002/jul/24/guardianobituaries.alexbrummer 2014年10月18日閲覧。 
  7. ^ "No. 45117". The London Gazette (Supplement) (英語). 5 June 1970. p. 6366.
  8. ^ "No. 48212". The London Gazette (Supplement) (英語). 13 June 1980. p. 1.
  9. ^ "No. 48257". The London Gazette (英語). 22 July 1980. p. 10391.
  10. ^ Weinstock

出典

  • Who's Who(英語版) 2001年版
  • Hutchinson Encyclopedia of Britain 2001
  • アレックス・ブルマー(英語版), Weinstock: The Life and Times of Britain's Premier Industrialist (HarperCollinsBusiness, 1998).
  • Timesonline article on the Weinstock Fund, charitable foundation
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